2022年8月23日 (火)

『遺伝子とは何か? 現代生命科学の新たな謎』

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中屋敷 均:著

講談社Blue Backs    (B2198)  20224

 

 この本を読むまで、ゲノム解析が進めば、人間のほとんどのことがわかってしまうのだろうと単純に信じていましたが、ことはそう簡単ではないということがよくわかりました。

著者は、ギリシア時代に始まり、人が遺伝ということをどのように捉えてきたかの歴史を細かに解説しますが、誤りであったこと、過去の否定、しかし、進んでみると過去の考え方がある意味では正しかったことなど、遺伝学の歩みは一筋縄ではいかないようです。

 最も驚いたのは、ヒトの場合、タンパク質になるゲノム配列は全体のわずか1.2%でしかなく、それ以外の領域はオペレーターやエンハンサーの役割をもつなど、まだまだその仕組みは探求されるべき部分が大きいということでした。かつてのように、「遺伝子とはタンパク質をコードするDNAの塩基配列である」と明快に言うことはできないのです。そのことは、

ゲノムとはその大部分が実は『遺伝子』や染色体を制御するための配列であり、各々が機能を持った独立した「遺伝子」の集合体というより、多数の『遺伝子』を協調的に制御するための巨大なシステムというのが実態

という言葉にまとめられています。

 そして、ゲノムサイズがヒトの30分の1の線虫でも、タンパク質をコードする〈遺伝子〉の数はあまり変わらず(約2万個)、ヒトを作り上げているのはその非コードの部分であるというのです。細胞数1000個程度の線虫と37兆個の細胞を持つヒトを分けるのはある意味、遺伝子のネットワークの複雑さ、ということなのでしょうか!

 理科の教科書に載っていたショウジョウバエの研究をしていた人たちがまるで梁山泊の猛者たちのようであったエピソードや、DNAの二重螺旋構造を発見したワトソンとクリックたちが実はロザリンド・フランクリンという女性研究者の画像を盗み見ていたエピソードなど、面白い話も紹介されています。

 「遺伝子」『遺伝子』〈遺伝子〉と別々に定義された遺伝子の話。面白い本でした。

2022年1月19日 (水)

コロナに負けない体は漢方でつくる

平馬直樹:著 (方丈社 2021119日)

 

 コロナのニュースを聞いていて不思議に思っていたことのひとつが、中国でのコロナについてはあまり深刻な状況を聞かない、ということでした。あれほど大都市に人が集まる国、かつて訪問した北京でも上海でも、街なかでは非常に多くの人が行き交っていたことを思い出しては、情報が公開されていないのかしら、とか、厳しいロックダウンをしたからかしら、と考えていました。

 

 しかし、この平馬先生の本を読むと、コロナ対策にうまく伝統中医学の治療法が活用されていたからだ、と理解できます。東洋医学文献を扱う図書館にいる私の所にも、コロナの流行の始めから、中国でどのような対策が取られているかの情報が流れてきていましたが、その結果についてはあまり把握していませんでした。それが、この本では、はっきりと示されていて、たとえば、中国国務院の324日の記者会見では、「中国全土の確定患者の九割を占めるおよそ7万4000人に対して、中医学の治療が行われた」と発表され、また、2月から3月まで臨時に開設された大花山方艙医院では中医学のみによる治療が行われ、収容した564名をひとりも重症化させることなく無事に退院させたといいます。また、大花山方艙医院では医療スタッフの感染が予防的に漢方薬を飲むことで、0に抑えられていたということも目を見張りました。

 

 あまり知識のない私の中では、ざっくばらんに言えば「標的とする病の原因に対して直接働きかけていくことの多い現代医学と、病と闘う身体の力を強化して治癒していく東洋伝統医学」という単純な理解があるのですが、よくわからない相手である新型コロナに対しては、伝統医学にすぐに打つ手があった、ということなのかもしれません。中国と日本は制度の上でさまざまな違いがあるとは思いますが、日本では信頼度の高い漢方エキス剤が手に入るのですから、今回のような緊急を要する事態の中では使える手段は有効に使いたいと思いました。本の中でいくつかの漢方薬の紹介もされていますが、今後出現する新しい感染症に立ち向かう時、一般人のできることというと、自分の体質を的確にとらえてくれる、信頼できる漢方の専門家を探しておくことかもしれないと思いました。

 

 かつて学会後の漢方を熱く語る会でお話を伺った平馬先生の御著であることもあり、ひと息に読んでしまいました。研医会診療所で診療を行っている清水雅行医師ががんや難病治療の専門家として紹介されていることも嬉しいことでした。日本に長く続いている漢方の知恵がより活用されるようになることを願っています。

2021年4月23日 (金)

LIFE SCIENCE 長生きせざるをえない時代の生命科学講義

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吉森 保:著 (日経BP 2020年)

 

 著者の書いた論文の総被引用数はなんと、分子生物学分野で国内2位、世界で22位。これほど世界に大きな影響力を持つ研究者が、このような一般向けの本を書いてくださったことにまず感謝しました。

 遺伝子、DNA、ゲノムといった言葉は私たちの生活の中でもよく聞かれますが、「じゃ、それぞれ説明してみて」と言われたら、私などは「ん!」と詰まってしまいます。高校や大学一般教養での生物学から約40年、生物科学の世界はぐんぐん進化して、万が一習ったことを全て覚えていても現在のこの分野のことを考えるには役に立ちそうにありません。そこで、吉森先生の出番です。科学的なものの考え方から始まり、病気とは、細胞とは、免疫とは、ウイルスとは、と基本的で、しかも最先端のことをやさしい言葉で教えてくださいます。

 後半では「老化を抑えること」に深く関わっているオートファジーについての講義です。「細胞の中の物を回収して、分解してリサイクルする現象」=オートファジーは病気を防ぐことに役立ち、神経変性疾患、がん、2型糖尿病、動脈硬化、感染症、腎症、心不全、炎症性疾患、筋委縮症、ミオパチーといった病気に関係すると考えられているのです。これからの研究の進展が待たれます。

 本の最終章では寿命を延ばす5つの方法が書かれています。これらを実行して、「死なないベニクラゲ」は無理でも、「生きている間、完璧な健康を維持するアホウドリやハダカデバネズミ」のように元気に生きてみたいと思いました。

 

2018年4月11日 (水)

『現代語訳 南海寄帰内法伝 七世紀インド仏教僧伽の日常生活』

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  義浄: 撰   

  宮林昭彦・加藤英司: 訳   

  法藏館(京都 2004

 

 7歳で寺に入り、善遇と慧智という師に育てられた少年は最初外典を学んでいましたが、12歳で善遇法師の死に遭い、以後は内典の学習にうちこみ、14歳で得度します。その後、洛陽や長安に学んだ後、インドへの留学を望むに至り、年老いた慧智禅師を故郷に訪ねました。慧智禅師は義浄の仏跡観礼は自分の随喜するところであると励まし、送りだしたといいます。『南海寄帰内法伝』は中国の僧・義浄が671年から694年にかけてシュリービジャヤ王国(室利仏逝=今のスマトラ島か)を経てインドに向かい、そこで行われていた僧伽(サンガ)の戒律をまとめた書です。出家者として守るべきことは多く、義浄は衣食住のいちいちを事細かに示しますが、そうした律が守られていない、あるいは伝えられていない中国の仏教界を嘆きます。具合が悪くなれば絶食をして病を治すインド医学を評価していますが、一方では中国医薬の優れていることにも触れ、また彼の地と中国の薬草の違いにも言及しています。また中国での少年僧たちの焼身自殺について、非常に厳しい批判をしていて、そこには法華経の誤読がある、と述べます。人の身に生まれ、仏の法を聞いたという類まれな有価値のわが身を軽んじてはいけない、と強く警告します。

 

 7世紀の出家者の暮らしが具体的にわかるため貴重な資料としても扱われますが、この現代語訳は大変読みやすく工夫され、言葉を補い、また非常にわかりやすい振り仮名がつけられています。たとえば「天性」という言葉に対し「うまれながらのこころのはたらき」と振り仮名があり、単に学術書としてだけではなく、真に義浄の声を汲み取れるよう心遣いがなされていると感じました。

2016年7月12日 (火)

『医学の歴史』

 

梶田 昭:著 講談社学術文庫 2003年(電子版2015年)

 

 巻頭に酒井シヅ先生の「推薦のことば」がある。それによると本書は編集者の求めに応じた書き下ろしである。西洋医学を中心に東洋医学、イスラム医学にも触れながら、人類の医学発展の歩みを綴ることを編集者から求められたということである。この本はその要求を見事にかなえ、読み物としても大変面白いものとしている。著者の梶田昭氏は病理学の専門家であったが、女子医大を定年で退職後、いくつもの医学史の名著の翻訳をなさっていた。旧約聖書や古代インド医学なども含む、非常に広範な資料を読まれたに違いない著者の筆は、本当に自由自在に時代と地域を飛び越えて、様々なヒントを与えてくれる。


インドや中国の医学について述べた章に、碩学ラッセルの『西洋哲学史』の「私たちが世の中でくつろいで暮らそうとするなら、アジアを私たちの思考の中へ、政治的にだけではなく、文化的にも同等なものとして受け入れなければならない」というくだりを紹介し、また「病院をキリスト教の発明と見なすのは間違いだ」と述べ、スリランカには前5世紀から病院と保養所があったことを紹介している。近代西洋医学の歩みを追ってきた我々日本人は、ともすると医学史を考える時も西洋に過大なものをみてしまうが、梶田氏は膨大な文献を渉猟して、その誤解を正してくれているように感じた。本阿弥光悦とガリレオ・ガリレイが生没年をほぼ同じくすること、またその秀吉の時代についてのネルーの日本についての言及など、医学史に限らない世界史の大きな流れの中で、見落としてはいけないものをできる限り拾って一冊の本にしてくださっているように思われた。


 もちろん、解剖学、外科学、生理学、細胞学、栄養学、病理思想、感染症、免疫学、生化学、分子生物学といった近現代の流れについても書かれていて、電子版で読んだ筆者は多くの傍線を付しながら読ませていただいた。

2015年11月28日 (土)

『骨から見た日本人 古病理学が語る歴史』

鈴木隆雄 著 

 

 1998年 講談社  2010年 講談社学術文庫  2014年電子書籍

 題名の副題を見落としていたため、もっとマクロ的な視点での話かと思って読み始めたのですが、本当に骨を観察して日本人がどのような病と向き合ってきたのかという本でした。

 心に残っている部分は、イラク北部のクルジスタン地方のシャニダールという洞窟遺跡から発掘された遺骨の話で、そのうちの一つの遺骨の周辺に限って、極端に密度の高い野生の花粉塊が発見された、という話です。ネアンデルタール人たちは、アザミ、タチアオイ、ノボロギク、ルピナス、ヤグルマソウなど、彼の地では5月下旬から6月上旬に美しい花を咲かせるというその花を、亡くなった人のために遺体の周囲に置いていたのです。6万年前の人もまた、私たちと同じ心を持っていたことがこの事実でわかりました。

 

 

 また、癩病についての章で、鎌倉時代の忍性という僧は、鎌倉極楽寺の悲田院で20年間に5万7250人の病人を受け入れ、そのうちの4万6800人が治癒し、1万450人が死亡した、ということが書かれていました。癩病といえば、たとえ発病したのが家族であっても病者を四天王寺の寺の床下に置いてきた、という話があるほど、忌み嫌われていた病気です。昔のことですから、数の中にハンセン病以外の皮膚病などが含まれている可能性もあるにせよ、忍性の努力、また、忍性を支えた周囲の人々の努力はすごいことだと感じました。

 骨にまで病の痕が残っている、ということでは梅毒もあります。江戸時代この病が老若男女を問わず人々を苦しめ、その頻度は推計54.5%であったという驚くべきことが書かれていました。

 

 

 さらに、結核については、この病が社会の緊張や闘争という時代に流行しやすく、低栄養の状態や移住などのストレスがかかる場合に悪化するという説明がありました。わが国の昭和25年の調査 では10歳で41.4、15歳で70.1%の子どもが結核に罹患していた、ともありました。もちろん、集団で狭い空間にいるような状態も流行の要因です。私はシリアからの難民たちの身の上が心配になりました。



 古病理学という学問の分野の本は初めて読みましたが、東洋医学の古典も読まれて、数々の歴史上の記録を調査なさり、実際の遺骨の調査と合わせてとても具体的な過去を描かれており、驚くような内容の本でした。

2015年9月 2日 (水)

『伊藤圭介』

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杉本勲(すぎもと いさお) 著

吉川弘文館 1988年

 

 このところ本草家についての本を読んでいます。江戸時代も後半になると西洋の学問が入ってきて、それまで中国の本草学一辺倒であった流れが変わり、近代日本の植物学や博物学につながる活動を始めた人たちがいます。この伊藤圭介もそのひとりで、名古屋の地にあって一介の町医から尾張藩の藩医へと登用され、またシーボルトから直接指導を受け、明治になってからは東京大学の教授となりました。

 

 父・玄道は医学においては浅井図南の孫弟子にあたり、医業に携わりながらも小野蘭山の高弟であった水谷豊文に本草学を学んでいたといい、また7つ違いの兄・存真は図南の孫にあたる浅井貞庵に医学を、本草学は父と同じ水谷豊文に学んだということです。つまり圭介は幼少の頃より医学、儒学を父兄に学んでおり、浅井家の折衷派の医学を身につけ本草学も当時の一級の学者に近い環境にいました。

 

 伊藤圭介という人は長寿で、戸籍上は享年99歳でありましたが、生前本人が語ったところによると実際は5歳ほども年上であり、百歳をこえる寿命であったということになります。親類縁者も80、90の長命が多く、生まれついての健康な身体をもっていたことに加え、早起き、粗食、また植物の研究に野山を歩いたことも良かったのではないかと著者は推察しています。そして、若い頃から午前3時には起きて読書をし、就寝前もまた本を読んだという読書好きの様子を伝えており、そうした飽くなき好奇心が長寿の秘訣かと思われました。

 

 幕末の混乱、シーボルト事件、コレラの流行など、伊藤圭介の生きた時代は決して楽な時代ではなかったにもかかわらず、この伝記を読むと健全で快活な人生を歩んだ人物として感じられます。この本の第1版が昭和35年に出されていることを考えると、日本が再び健全さを取り戻した時期でもあり、そうしたことも関わりがあるのかもしれません。

2015年9月 1日 (火)

から船往来 日本を育てた ひと・ふね・まち・こころ

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東アジア地域間交流研究会 編 

中国書店 2009年

 

 国としての交流、商売の交流、宗教の交流、そして文化の交流とさまざまな面から、しかも古代から近代までという大変長い時間の中での東アジアの交流について、14編がまとめられている論文集です。 編集後記には、「から船」とは、唐の船であり、韓の船でもあり、また、日本から中国大陸を目指して行った船でもある、と書かれていますが、さらには、東南アジアを経由して長崎に入ったオランダ船もまた「から船」でありました。そうした非常に広い意味を持つ「から船」にまつわる話は東西の文化交流に興味を持つ私としては大変面白く読みました。

 

 医学の分野では、吉田洋一氏の『福岡藩の医学――亀井南冥を中心に』という論文が収載されており、オランダ医学の受容に積極的であった永富独嘯庵と共に旅した亀井南冥に焦点が当てられています。両名は、西国漫遊の旅を共にしており、亀井南冥は医術の弟子として1年ほど独嘯庵に仕えたそうです。

 

 また陳翀(ちん ちゅう)氏の『中国の観音霊場「普陀山」と日本僧慧萼』では、平安期に寧波にほど近い普陀山という島に寺の名を借りた「日本国院」を建てようとしたことが語られています。円仁の『入唐求法巡礼行記』には登州の赤山法華院の新羅人たちが力を貸してくれたことが書かれていますが、日本もまた、このようないわば領事館の役目を担う場所を江南の地に築こうとしていた、という事実に、驚かされました。

2014年1月21日 (火)

『知の座標 中国目録学』白帝社アジア史選書002 

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井波陵一 著   白帝社  2008年

 

 和漢藉の蔵書の多い研医会図書館に来て、自分が中国の目録学や書誌学をきちんと学んでいないということに気づきました。それでも、日々読む資料には「四部分類」の言葉や『四庫全書総目』などという言葉が頻繁に出てきて、なんとなく半分解ったような解らないような状態でおりました。この状態は大して今でも変わりませんが、それでもこの『知の座標』を読んでからは大きな認識として、目録学の難しさと重要性が解ったように思われます。

 

 第一章 図書分類法の時代区分」の中に「つまり『七略』、『隋書』経籍志、『四庫全書総目』のいずれもが、中国社会が古代から中世、中世から近世、近世から近代へと向かう重要な転換期に、まさしく足を踏み入れつつある時期に成立したことになります。」という言葉がありましたが、その時々の編纂者は自分たちの時代を絶頂期だと信じて、それまでの時代を総括し体系化したのだろう、と筆者は述べています。

 

 そして「おわりに」では、時代の「革命的要素」はその時々の分類体系から下方排除され、「雑」として蔑視される周縁的な分野に存在するという考えを述べられていますが、このくだり、わくわくするような気持ちで読みました。

 

 京都大学人文科学研究所付属漢字情報研究センターの漢籍担当職員講習会の講義録に基づく本です。漢籍を調べる方にお薦めです。

2012年9月 7日 (金)

『ユーラシアの東西』中東・アフガニスタン・中国・ロシアそして日本

24 杉山正明 著、日本経済新聞出版社2010

 久しぶりの更新になってしまいました。

 東洋医学の文献をみていると、自然と東西交流やら、各国・各時代の交流史に目が行くのですが、この本もそうした興味から手に取ったものです。著者の杉山正明氏は1952年生まれの方で、京都大学、同大学院文学研究科を卒業されたモンゴル史の研究者です。1995年には『クビライの挑戦』(朝日新聞社)でサントリー学芸賞、2003年にはモンゴル時代史研究の功績で司馬遼太郎賞、2007年には『モンゴル帝国と大元ウルス』(京都大学学術出版会)で日本学士院賞を受賞された、と巻末にありました。

 面白かったのは、「後醍醐天皇の謎」という章。モンゴル史研究者の目でみれば後醍醐帝が目指したのは元朝の制度であった、という部分。日本の文献にはそれは「宋」と書かれているけれども、実際には元が手本であったといいます。このことは、金元時代の医書を調べていてもみかける表現で、<野蛮>とされていたはずの元は、実は合理的でスタンダードを生み出す力があったとみられ始めているのです。

 また、第6章では足利の篤志家、山浦啓榮(ひろしげ)氏との不思議な交流について書かれていて、山浦氏が足利に華雨蔵珍之館という拓本の資料館を作られた経緯が判ります。足利学校のある彼の地でこうした日中交流の研究資料館が作られたことは、何か因縁めいたものを感じてしまいます。同館のホームページには、見学には何名かまとまって申し込んでください、とあるので、今度みんなで行く機会を作ってみようかしら、とも思いました。

 杉山正明氏が長年手がけられている『集史』が出版されるのも待ち遠しいことですね。伝統医学の世界もまさにこの本の扱うユーラシアにあり、時には大きな目で歴史を考えるのも面白いことでした。さらに、日本における世界史研究は「時代・場所を問わず、ひととおりどんな分野であれ、それを専業とするさまざまな研究者たちがほぼ隈なく、かつはまことに広汎に存在し」、「そのうえ、個々の研究もまた、ほとんどの場合、実に緻密で生真面目な、きちんとした分析・実証・論述がなされている」という特徴を持ち、さらに日本は政治的・宗教的にニュートラルな立場であり、冷静な世界史を作り上げていく素地がある、ということです。

 最後に第4章にある文章を紹介します。

「最近、わたくしどもは、日中韓をこえた「中世大交流」ということから日本文化の基層を考えようとしていくつかのこころみをしています。十三世紀、十四世紀、十五世紀においては、東アジアに文化的なボーダーはほとんどなかったのです。」これを読むと、医学書の世界でのことも確かにそのようだ、と納得してしまいました。

 

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馬島明眼院

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    名古屋の馬島明眼院の写真です。かつては一帯に多くの眼科治療院があり、各地からの人々が宿に泊まりながら治療を受けていました。